自分のことを考えるってどんな事なんだろう。

私の周りにはありがたい事に、すごく本質的な言葉を投げてくれる人がいて。
そして最近はそういった人たちに、「自分」について改めて考えさせられる機会を与えられているように思っている。

私が尊敬している人がいるのだが、その人に投げられた
2つの言葉について、今回は咀嚼していきたい。

「やりたいこと」が定まると、悩みなんてものはなくなるよ。
やりたい事というのは、探して “見つかるもの” ではなく
経験と思考を繰り返していく過程で、気付いたら自分のなかにあるもの。
それは、「よし、これが自分のやりたいことだ!」なんて “決めて” もつべきものでもなければ、
やった事がないのに「これが自分のやりたい事なんだよねえ」なんて言えるものでもない。

「やりたいことはこれです。」って言うのは簡単だし誰にでもできる。
ただ、そこに強い信念が付随するかどうかは、経験の重みによって変わってくるのではないか。

私は「何がやりたいことですか?」と聞かれた時に
「どこに行っても価値を生み出せる人になること」と答えていた。
どこに行ってもというのは、組織でも場所でも、たくさんの意味合いを含んでいる。
この「やりたいこと」は本心だし、
海外で働けるようになりたいというのは、
幼い頃から海外が大好きな自分の人生の目標である。

一方で、その答えはなんだか、「やりたい事」の本当の意味を捉えきれてないようにも思う。
やりたい事が定まると、悩みなんてものはなくなるらしい。
強い信念を持てたときにはじめて、1つの事をやりぬいたり、貫き通す覚悟ができるという。

「まだまだ悩んでるね。定まるといいね、やりたいこと」
と言葉を投げられた時に、なんだか刺さるものがあった。

自分はこれまでも「自分」に向き合ってきたつもりだし、ブログにもたくさんの言葉を綴って来た。
でも、私がしてきたことは何かが起こってから「起こった事象を咀嚼する」事であって、
それが「自分」に向き合うという事にイコールだと勘違いしていたのかもしれない。
その上、自分に向き合うという事に終わりはないし、らせん状にのぼっていける事でもある。

自分に向き合い、自分のことを考える。
そのときに、自分のなかにある強い信念というものが分かるのかもしれない。

・自分を主語においてみて。
この言葉に関しては、うまく咀嚼できていない。
けど、刺さるものがあったから、自分が出来ていないことなのだろうなあと思う。
全てを理解できなくて、感覚で言葉をつかんで感じているだけだから、
本当に自分のものにしたかったら、理解する必要がある。

自分を主語におく ≠ 当事者意識を持つ
である。
当事意識をもつ ≒ 自分を主語におく
なのかもしれないけど。

「私は○○がしたい」といくら口でいっていたとしても、
その言葉の主語が自分であるとは限らない。
「私は」といっているのに、主語は自分になっていないっていうのが
すごく難しいところなんだけど、、、。

「自分を主語にする」ってどうなった状態だと思いますか?
(咀嚼できなさすぎて投げてみる。笑)
dog

その尊敬している人に会う度に、「やりたいこと定まった?」と聞かれるので、
いい加減に胸はって会いたいなあなんて思う。

自分を主語においた “やりたいこと” がもてたときに
また一歩先に進めるのだろうと、思っている。

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