久しぶりに、嗚咽がでるまで泣いた話。世界から猫が消えたなら、を読んで。

久しぶりに、嗚咽がでるまで泣きました。
まあ、本を読んで泣いたっていうだけなんだけど。

「世界から猫が消えたなら。」
をやっと読みました。
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この本は、きっと、自分の本当に大事な人を亡くした事がある人に刺さる本。
解説で、中森明夫がこう言っているんです。「この小説に感動するのは、読み手の心の中にある喪失と響き合うからだ。喪失は個人個人それぞれにあるかけがえのないものである。どうして、それを一般化して解説などできるだろう。できるはずがない。ただ、私にできるのは、そう、自らの喪失を語るだけなのだ」って。

読んでいて、何度も何度も本をぎゅっとにぎりしめて、涙を流した。それくらい、私は感情移入して読めた本になりました。

ただ、レビューを読むと、「文体が軽い」とか「あまりにも内容が陳腐すぎる」とか、結構散々書かれていたのだけど。笑
きっと彼らには、この本から響く実体験を持ち合わせていなかっただけ。
私はそれはとっても幸福な事だと思っていて。だって、自分の最愛の人を失った事がないってことだから。

世界に何かが存在する理由はあっても、失われる理由なんて、まったくない。

「何かを得るためには、何かを失わなくては」ということは、きっと筆者の述べる通りで。私は、「失くした代わりに得られるものがある」っていう順序の方がしっくりはくるんだけど。

”ある事が当たり前” に思えていたものや人が、自分の日常からいなくなってしまうのは、どれだけ想像したとしても、想像できないもので。なのに、実際に起こってしまってからだと、どれだけその人にもう一度会いたいと願っても会う事はできなくて。本当にどうしようもないことで。

昨日まで当たり前のようにメールしていたはずが、返事もこなくて。
次第にエラーメールになってしまう。
昨日まで当たり前のように電話していたはずが、もうその人の声を聞く事はできなくて。
何度神様に心の中で、「時間を戻して」って言っても、戻るわけなくて。そんな奇跡、アニメみたいに起こるわけなくて。起こるわけないって、わかってるはずなのに、心の中では何度も願っていて。
「お願い、もう一度だけでいいから。」って。

私たちの生活は、言ってしまえばきわめて日常的なものの中にしかないと思う。
当たり前の朝、当たり前の家族、当たり前の1日、
そんな当たり前に思える時間を日々過ごしている。

私は、最愛の人を失くしたから、そういった同じ心境の人の気持ちが少しだけわかるようになった。
それが「失くした代わりに得られるものがあった」ってことかなって。

私たち1人ひとりの生活や心の中には、思いがけない穴がポッカリ開くことがあり、
そこから冷たい隙間風が吹くことがあります。
それは病気であったり、大切な人の死であったり、他人とのもめごと、事業の失敗など、
穴の大小、深さ、浅さもさまざまです。
その穴を埋めることも大切かもしれませんが、
穴が開くまで見えなかったものを穴から見るということも、生き方として大切なのです。
「置かれた場所で咲きなさい」
 −渡辺和子

だからこそ、いま一度「自分の当たり前」を振り返りたい。
風邪になってはじめて元気に動ける事に感謝したり、
食中毒になってはじめて、おいしくご飯を食べられる事に感謝したり、
そうやって”なにか”が起きてから感謝するのではなく、
おなじようにみえる瞬間の積み重ねである”日常”から感謝していきたい。

なーんて、とっても偉そうな事を過去のブログから引用してみました。笑
「当たり前なもの」が当たり前でなくなるとき。

dog

世界から○○が消えたなら。
想像しても想像しきれない事だけど、そうやって自分にとって本当に大切なものってなんなのだっけって、常に自分に問いかけながら、これからも日々丁寧に生きていたいと思う。

世界から自分が消えたなら。
それでも、世界は何も変わることなく、まわっていく。
だからこそ、「自分が」いま生きていて楽しいのか、幸せなのか。そこが大事なんだろうなあと。

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