「自分の想いと事実」と、「大切な人を失った時に感じる悲しさ」という事を、小説から考えてみた。・・・白石一文著「翼」

最近読んだ白石一文の「翼」。
最初読んだときは、よくわかんない本だなあ、そこまで好きな本じゃないなあと思いながら、「何度も読んで、泣く人続出」という帯を不思議な目で見ていました。
けど、日常生活を送るなかで、ふとしたときに思い出すフレーズだとか、思い当たる場面を考えるようになって。それについて今回は。
いつも以上に抽象的で、長い文章になってしまう気もしなくはないのだけれど。笑
整理したかった自分の気持ちを大きくわけると、
①自分の行動は、行動を派生させた”自分の想い”は大切ではあるけど、実際重要ではなくて、受取手が”どう感じるか”でしかない。
②大切な人を失って悲しいと感じるのは、自分のことを理解してくれる人がいなくなってしまった、という感情が大きいからではないか。
という2つかなあ。笑

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「死は記録の消滅だとずっと思ってきた。」

主人公のOL里江子は、小さい頃から、死とは「記憶の消滅」だとずっと思ってきました。
そのため、「何も覚えていない状態なんじゃないですか。すべての記憶が消去されてしまうっていうか」「共有されたデータっていう送信済みのデータっていうか、そういう記憶は当然他のメモリーに残るので、その意味では関係者全員の死をもって完全な無になるのかもしれないですね」と作中で語ります。

さらに里江子は、「死」と「記憶」についての自分の考えを述べるのです。
「たとえば私が死んでも、本部長は生前の私のことを憶えてらっしゃるでしょう。もちろん記憶は薄れ、曖昧にはなっていくでしょうし、たとえば今夜のことなんて私と二人で会ったという事実さえ記憶には残らないでしょうけれど、でも、私という人間がいたことやそれに伴うある程度の私に関する情報は本部長ご自身が亡くなるまで本部長のメモリーに残ると思うんです。だとすれば、そうやって多かれ少なかれ私と関わった人が全員死んでしまわない限り、私という人間のデータは部分的にでも残存しますよね。ということは私が完全に死ぬためには私のことを知っている人間が死に絶える必要がある。つまり私は、私自身と私の関係者全員が亡くなった瞬間に完全に死んでしまうんだと思います。それが完全な無ということではないでしょうか」

そしてその後、主人公と会社の上司の会話でこのようなフレーズがでてきます。

「たとえ自分自身が死んでも、自分のことを記憶している人間がいる限り完全に死んだ事にならないんなら、逆に、自分が生きていても、その自分のことを知っている人間が死んでしまえば、自分の一部が死んだことになる。」

「自分のことを最も深く理解してくれている人間の死は、自分の死と限りなく近いのかもしれませんね」

「自分のことを最も深く理解できるのは決して自分自身とは限らない。だとすると自分という人間を最大限に把握している別の人がいて、もしもその人が消滅すれば、「自分というデータ」のまさに中枢部分が失われる事になる。」

・・・
なるほどと。

自分のことは、自分が1番知っているわけではないかもしれない。”自分の声”は、自分が理解しているものと、他の人が認識しているものが違うように、自分は自分の”意識”の上でしか理解しきれていないけど、他の人は客観的に自分のことを常にみている。
だからこそ、他人にとっての自分が「自分」なのだと。

自分のとった行動における想いや、自分の気持ちなんて所詮関係ない。それが、相手にどう受け取られて、どのように記憶に残ったのか、物事はそれだけでしかないのだと。だから、自分の大切にしている事があるのであれば、そこに向かって真摯に、それだけを貫き通す覚悟がある人にだけ、その”大切にしていること”を語る資格があるのではないかな、と感じた。 正直、語っても意味のないことが世の中には多い。たとえば、世界一周していない人がどれだけ文献などで世界一周のことを調べて、心から「これは本当にオススメ!」と思って、世界一周の魅力をいくら語ったって相手には響かないだろうし、イチローばりの努力をしていない人が、「イチローの努力ってすごいよなあ、自分もイチロー目指してんねん」とか語っていたとしても、誰も信用しない、むしろ自分の価値をさげているという事でしかない、というイメージ。
いまの自分に、全然だめだ・・・という思いばかりが募る。不甲斐ない。

こんな事書いてたらちょっと語弊が生まれそうだけど。
私は、「自分がどういう想いをもち、その行動にうつっているのか」をいままで特に強く考えてきました。だからこそ、”所詮関係ない”って思うんです。
周りから理解されない行動は、結局エゴでしかないから。いくら「周りのため」って自分が主張する行動をとっていたとしても、周りから「いや、それは自分のためでしかないよ」と言われた瞬間に、ただのエゴになる。
理解者や、応援してくれる人が1人でもいたとしたならば、その瞬間にはじめて、自分の想いは”本当のもの”になると。

「相手に対して真摯に在る」「相手にとって何が1番相手のためになるのかを考える」これを大事にしているはずなのに、たとえば、ランチの時間さえ守れない、自分のした約束に勝手に優先順位をつけ、自分の中途半端な行動が相手を傷つける。そんな、”当たり前のことを当たり前に”できる人には起こり得ない事を引き起こしてしまっている。
これは改善すべき、基礎中の基礎のこと。本当にごめんなさい。

本当は、ここに書いた事ではなく、恵里子の言葉を聞いた時に真っ先に感じたことがあるのだけど、そばにいた人が失望の中で私に投げた言葉が深く刺さったので、これは書きたくなった。ただの自戒。

ちなみに真っ先に感じた事というのは、「大事な人を失った時に、”悲しい””寂しい”と思ってしまうのは、「自分のことを理解してくれる人を失った」と感じるからなのかな」ということ。自分のことを理解してくれる人を失うということは、耐え難い事だ。その人との時間や思い出の共有は、他の誰にもできない唯一無二のもの。同じものは存在しない。言葉では説明できない事が、過ごす時間には含まれると思う。記憶と、出来事は別。出来事が事実であったとしても、それはその事象が起きている瞬間だけの話。
その後、何が事実になるかというのは「記憶」に刻まれた事。自分がどう思って、どう感じたか、ということ。だけど、その記憶を共有し、証明できる人が自分以外にいなくなってしまえば、事実は無いに等しいのではないかなと。

「自分が死んで、自分という人間が存在したことを誰一人憶えていなくなったら、それこそ自分が生れてきたことが丸々無かったことになってしまいます。」

自分という人間が存在したことがなかったことになる、それはすごくこわく、悲しい事だと感じた。
たとえ、自分が記憶喪失になったとしても、自分の周りの人が自分と共有した記憶をもってさえいれば、その事実はなくなったことにはならない。

私が色んな人と会ったり、話したりすることが好きなのは、もちろん「”相手のことを考えている”自分が好き」という想いは強いが、たぶん、たぶんだけど、誰にも覚えてもらえなくなることや、誰にも理解してもらえなくなる恐怖の方が大きいのかもしれないな、と考えた。「相手にとって、自分が大きな存在になりたい」というエゴ。

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こんな事色々とえらそうに書いたけれど、やっぱり大切な人との別れは辛い。「辛く、悲しい」事でしかない。どれだけ考えても、それに尽きるんだと思う。
難しいことなんてきっと考える必要ないんだけどね、結局考えてしまうね。笑

もっともっと自分のしたい事や、「自分のありたい姿」と「他人からの自分への認識」が近付くように、精進していかなきゃなあと思った朝の4時。
まだ完全には落とし込めてないけれど、なんだか自分にひっかかった文中の言葉を最後に引用して、終わります。
今回の記事も完全に自戒のために書いたものだけど、書かないと忘れちゃうからね、自分がどう感じていたかなんて、すぐに。
だから、これからも自分が書きたい時に、書きたい事を、ブログには書いていきたいなと、2015年もそうやって日々を丁寧に過ごしていきます。

「俺たちは他人の心の中に自分という手紙を配って歩く配達人にすぎないのかもしれんなあ。配達人が郵便受けに差し込む手紙の中身を知らないように、俺たちも自分がどんな人間なのかちっとも知らずに、それをまるごと人に預けているだけなのかもしれん」

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  1. ピンバック: 2回目の2月13日を迎えるにあたって。− 重松清の「その日のまえに」を改めて読んで。 |

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