2回目の2月13日を迎えるにあたって。− 重松清の「その日のまえに」を改めて読んで。

日常から「それまであった”当たり前”のこと」が消えるのは、想像以上にあっさりとしている。当たり前に思っていたことは、なくなった時に、その事象を自分が当たり前だと思っていたという事実にまず気付く。ただ次第に、その事象が”ない”ことが当たり前になっていく。
人生なんてそんなことの繰り返しな気もする。悩んでいたことは、その時の自分にとってはただならぬことだったりするけど、思い返してみると、くだらない、小さなことでくよくよしてたなぁなんて感じるなんてこと。私にはよくある。

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人生の始まりも終わりも、みんなに訪れる平等なもの。
けれど、それまでの時間や、それまでの過程、始まりも終わりのタイミングも…実際、全然平等ではない。

全く空白ではないけれども、”空白”という言葉に逃げたくなってしまうような、2年前の2月を思い出しながら、久しぶりに重松清の「その日のまえに」を丁寧に読んでみた。

読んでいくうちに、自分の経験と照らし合わせ、2年前のことを思い出しはじめて、辛かったこと、しんどかったこと、楽しかったこと、悔しい気持ち…色んな感情がわき上がってきた。
掘り起こせば掘り起こすほど、それまで忘れていたこと、忘れようとしていたことが一気にぶわーっと思い出されてきて。まるで、たくさんの物をどうすることもできないまま、その場しのぎで詰めた段ボールをあけてしまったように。

大切にしていたはずが、忙しく過ぎる時間の中で、気付けば軽視していた事。
わだかまりが消えずに引っかかったままで、どうしようもなくなって、思考停止して蓋をしてしまった想い出。そんなことが止めどなく溢れ出した。

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重松清の、「その日のまえに」は、短編集のようにみえて、最後は全てが繋がる小説。人の「死」に真っ向に向き合った作品で、世界から猫が消えたなら、とともに私が大切に、大切にしている本です。

その中の1つのお話で、余命宣告をされた和美と、旦那さんがでてくる話がある。2人の息子をもつ、4人家族。

和美と旦那さんは、和美がこの世からいなくなってしまう日を、「その日」と呼んでいた。

死は突然に訪れるものだと思っていたのだ、あの頃のぼくは。交通事故でも心臓麻痺でも、死は不意に目の前に現れて、不意に僕たちをさらっていくのだと思い込んでいた。だから怖かった。

一年足らずの余命を宣告されてから、和美と僕は、何度となく「その日」の話をした。和美が息を引き取るその日に向けて、できる限りの準備もした。気持ちの整理をつけ、別れを告げたい相手には別れを告げ、こまごました事柄の準備や後始末をすませたうえで、僕たちは和美の人生の最後の1日に臨んだのだ。

でも、思っていたより、その日をあっさりと通り過ぎてしまった気がするんです。こんなのでいいのかな、このまま和美のことを少しずつ忘れていっていいのかな、って・・

私にとって、ここでいう”その日”は、13年間ずっと想像はしていた”いつ来てもおかしくはない、1番きてほしくなかった日”だったように感じる。思い返してみると。

「その日」は旦那さんのところにあっというまにやってきて、あっというまに去っていった。その時の記憶が鮮明だとしても、まるでその事実すら嘘のように。
人の死なんてものは、理解しようとしても理解なんかできないもので。理屈で考えたとしても、なにも結論なんて出ないことで。納得できない感情が、自分のなかに残り続けてしまう出来事。あっさりと過ぎていく「その日」だけれど、きっと忘れることなんてできない。
でも、たとえば明日私が記憶を失ってしまったとしたら。最愛の人との想い出が真っ白になってしまったら。それは「その事実が存在しなかった」ことと同じになってしまう。
記憶なんて、やっぱりそんな曖昧なもので。そんなことを想像すると、急にこわくなる。たしかに、最愛の人を失ったにも関わらず、その時抱いたはずの「悲しみ」の気持ちはどんどんうすまっているように感じる。悲しさや寂しさ、やるせなさのような、そんな淀んだ感情さえも、気付けば小さくなっていっている。

先月までは、胸の底にいつも重いものがあった。和美のことをとりたてて思い出すわけではなくても、なにをしていても決して夢中にはなれなかった。悲しさや寂しさといった感情になって外に出ることがない重石が、ずっと居座っていた。僕が生きる時間はすべて、その重石に触れてしまう。時の流れが、いちいち淀んでしまう。
やがて、僕は重石に触れずに時間を流すコツを覚えるだろう。重石そのものも小さくなり、軽くなっていくはずだし、和美の面影も、思い出さなければよみがえらなくなるかもしれない。そのとき、僕は、和美の死からようやく立ち直ったと喜ぶのだろうか。それとも、和美を忘れてしまった自分を責め立てるだろうか。

僕たちは少しずつ、和美のことを忘れている時間を増やしていくだろう、和美のことを思い出さない期間が、少しずつ長くなっていくだろう。もしかしたら、僕はいつか、和美の思い出よりも大切にしたいと願う女性に出逢うかもしれない。
だが、和美が消え去ってしまうことは、絶対にない。ひとは、パソコンのデータをクリック1つで消去するようには別れられない。そんなふうに別れたくないし、別れてたまるか、とも思う。

「世界に何かが存在する理由はあっても、失われる理由なんて、まったくない。」
私が、すごく、すごく大切にしている言葉。
何かが、誰かが、失われる理由なんて全くないんだけど、でも、誰にとっても”始まり”があったように。”終わり”は必ずくる。

ねえ、簡単にきちゃうんだよ?
ねえ、”その日”なんて、本当に簡単にきちゃうんだよ?

でも、どんなに悲しみにくれたとしても、人間は身勝手な生き物で、次第に忘れていってしまうものなんだ、そんな感情さえも。

どんなに懐かしんだとしても、そのときの時間が戻ってくることなんか絶対になくて。前に、前に進む事でしか、過去も未来も報われない。

過ぎたものにも、自分が選んだ道にも、正解・不正解をつけるのは”いま”の自分でしかない。

悲しいことがあって、悲しみにくれて、どうすればいいかわからなくなった時は、自分の感情に蓋をしてもいいと、ふと、思った。
私が「その日のまえに」に出逢い、何に対する涙かも理解できないまま、それでも止めどなく涙を流したように、そうやってなにかのタイミングで思い出せばいい、思い返せば良い。
大事なことは絶対に忘れない。大事なことは、どれだけ自分の気持ちに蓋をしていたとしても、思い返せる。

いまの自分の気持ちをこうやって言葉にしてみて、一周忌、三周忌、そうやって、故人を偲ぶ「日」に、そういう「タイミング」に、蓋をしてしまった感情を掘り起こしてもいいんじゃないかな、普段無理に思い出す必要はないんじゃないかな、とちょっと自分のことを許せた気がする。

あっというまに2月13日がくる。きっとこの日を忘れるわけなんてないのに、カレンダーに書いて、こうやって文字にもして、忘れないように、忘れないようにしないとっていう焦りが自分のなかになぜかある。忘れることが怖い、それは自分がまるでその日を軽視してしまっているかのように思ってしまうからだろう。ここまできてもやっぱり身勝手で、、、結局その日を忘れたくないのは自分のためな気もしてくる。
ひらすらに忘れたくない。それはこの記事からも自分の気持ちがすごく溢れ出ている。(「自分の想いと事実」と、「大切な人を失った時に感じる悲しさ」という事を、小説から考えてみた。・・・白石一文著「翼」

でも、そんな身勝手な想いからの派生であったとしても、すごくパワーをもらっている。「母を悲しませないために、もっと一生懸命に生きなきゃいけない。」そういった想いがひらすらに自分を突き動かせる。

さて、もう2月も半ば。日々丁寧に生きて、もっともっとがんばっていかなきゃねえ。

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